湘南・鎌倉の写真館鎌倉について
 
湘南鎌倉地域についての基礎知識
 
・鎌倉
 
概要
鎌倉は1192年に征夷大将軍に任ぜられた源頼朝が、12世紀末(1192年頃と言われているが定かではない)から1333年まで鎌倉幕府を開いた都市(古都)として知られている。
源頼朝がこの地に幕府を開いた理由としては、この地が源氏にゆかりある都市だったことや、西、東、北の三方が山、南の一方が海に囲まれており、必ず「切り通し」と呼ばれる山を切り開いた狭い通路を通らなければ来ることができない、天然の要害だったこと(つまり攻められにくい都市であったこと)などが挙げられる。
・鎌倉には、主に鎌倉時代に造られた史跡が多いが、実際には奈良時代に創建されたといわれる寺がいくつか存在する(長谷寺、杉本寺など)。そのほかにも縄文、弥生時代の史跡も存在する。
このようにたくさんの史跡があるため、鎌倉にはたくさんの観光客が訪れている。
  
歴史
・1063年、頼朝の先祖である源頼義が、河内源氏の氏神である壷井八幡宮(河内国)*1をこの地に移し祭り、鶴岡若宮とした。これが現在の元八幡(材木座)といわれる。これ以来、鎌倉は源氏のゆかりのある都市となる。 *1壷井八幡宮は京都の石清水八幡宮から移し祭った神社である。
・源頼朝が初めて鎌倉に入ったのは、平治の乱後、伊豆の蛭ヶ小島に流された後の1180年のことで、伊豆で平家打倒の兵を挙げたあと、 石橋山の戦い(敗北)、富士川の戦い(勝利)を経て、鎌倉へ入った。この時、大蔵(現在の八幡宮の東)に館を設ける。これが、後に大蔵幕府と呼ばれるようになるのである。また、鶴岡若宮を移転させ、八幡宮とした。これが現在の鶴岡八幡宮である。この後、この鶴岡八幡宮が鎌倉の象徴になり、これを中心に都市計画が行われた。若宮大路、段葛はこの時にできたものである。
・この後、源氏の将軍は3代(頼朝、頼家、実朝)で途絶え、北条氏による執権政治が始まっていくのである。この頃は京都(朝廷)とともに二大年として栄えた。承久の乱後は朝廷の力が衰えていった為、鎌倉の政治的優位は高まっていった。13世紀後半のこの頃、建長寺、円覚寺などの禅寺が建てられたり、大仏が建立されたりした。また、この頃鎌倉五山が成立した。
・元寇襲来のあと、永仁の徳政令を出すなどして混乱した幕府は、新田義貞により鎌倉陥落されたことで崩壊した。この時、切り通しから攻められなかったため、困った義貞が稲村ヶ崎に刀を置くと潮が引いていき、海側から攻めることができたという話は有名である。
・鎌倉幕府は崩壊したが、建武の新政時には関東統治のため鎌倉将軍府がおかれたり、室町幕府時は鎌倉府がおかれたりするなど、鎌倉の重要性は変わらなかった。しかし、5代鎌倉公方(鎌倉府の長官)の足利成氏が室町幕府と対立し古河(茨城県古河市)に逃れたことで、鎌倉の重要性が少しずつなくなっていった。
・江戸時代に入ると、徳川家康、秀忠により、鶴岡八幡宮の保護が行われたが、鎌倉が政治に関わりを持つ都市になるわけではなかった。だが、江戸中期からは、鎌倉は江戸近郊の遊楽地として栄えていくようになった。
・近代では、横須賀線の開通とともに東京近郊の高級住宅地、観光地、海水浴場として栄えていくようになっていった。また、夏目漱石、芥川龍之介といった文学者が鎌倉に住む、あるいは鎌倉を舞台とする作品を残すようになった。特に鎌倉市に住んだ文学者を鎌倉文士と呼ぶことがある。
また、住宅地開発がさかんになり、東京のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。この時、鶴岡八幡宮の裏山が開発される可能性があったが、ナショナルトラスト運動が起こり、その甲斐あって裏山は開発されずに守られた。なおこのことが、日本におけるナショナルトラスト運動の始まりであった。
・現在では、多くの文化財、良好な自然環境を残した国際観光都市として栄えている。また、鎌倉は「古都鎌倉の寺院・神社など」という名称で世界文化遺産の暫定リストに掲載されている。
 
(参考、ウィキペディアフリー百科事典 「鎌倉」「鎌倉市」)
 
・湘南
 
概要
・湘南という名称は中国の湖南省にある、洞庭湖の南岸、「瀟」に似ているとされ、「模国の部」という意味もこめ、明治時代に名づけられた。
・具体的な位置は曖昧であるが、二宮から葉山までの海岸地区を指すといわれる。
しかし、神奈川県による規定では湘南地区は、平塚市、茅ヶ崎市、藤沢市、伊勢原市、秦野市、寒川町、大磯町、二宮町であり、鎌倉市、逗子市、葉山町は含まれていない。
その他気象区分、自動車ナンバープレートなどで定義が異なっている。また、そのいずれも鎌倉市、逗子市、葉山町は含まれていない(鎌倉市の気象区分は三浦半島、自動車ナンバープレートは横浜ナンバーです)。
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